新川 俺と聡が知り合ったのは1989年のこと。グローバル・ダイニング(以下GD社)が、巨大プロジェクトの話で盛り上がっていた時期だった。フレンチあがりの面白いヤツが来たって聞いてね、それが聡だった。
石田 そんな風に言われていたんですか、僕は(笑)。僕の方は“やり手の先輩”として、新川さんを見ていました。次第に超えなくてはならない大きな目標と感じるようになっていきましたね。
新川 その頃GD社はまだ、年商10億円も稼いでいない時期。それなのに10億円借金してやるっていう新店舗で、俺と聡が一緒になった。あれは社運がかかっていたよね?
石田 かかってましたね〜。緊張感、ビリビリですよね。
新川 俺が店長で、聡が副店長。たぶん、お互いのゴールは一緒だったと思うんだけど、聡には聡なりの考え方があって、俺には俺の考え方があって、相容れなかったというか…。認め合ってはいるんだけど、どこかで一枚岩にはなれなかった、というのかな。結局、聡は先輩に誘われて、他の店に異動しちゃったの。
石田 そうでしたね、立ち上げるだけ立ち上げてね。7〜8ヶ月ぐらいで抜けたんですよね(笑)。
新川 その後、僕の店もすぐに軌道にのって、うまく時代にのった感じがするね。それで3年後には東京・代官山に「タブローズ」を立ち上げて爆発的人気になって。ほどなくして聡の方も、六本木・飯倉の「ゼスト」で同じように人気が沸騰してね。
石田 僕の方はそんなにすぐ立ち上がらなかったですよ。じわじわ、ですよ。一回、社長にたたかれましたもん。
新川 そうだっけ?
石田 そうですよ。軌道にのせるまで、一年はかかりましたもん。
新川 いやいや、そんなに謙遜しない方がいいよ。あの難しい立地で1500〜1600万円の売上げからスタートして、すぐに2000万円代にのせたじゃん。俺、はっきり覚えてるよ。それにね、その後の東京・恵比寿の「ゼスト」の立ち上げでね、俺、石田聡って人間を「すげぇなぁ」って思ったの。あれ、何年だっけ?
石田 97年ですよ。確か。
新川 聡はその時、GD社で一番でかい店をまかされたわけ。まぁ、自分から手を挙げたんだけれどね。その時、俺は聡の直属の上司ではなかったけれど、気になるもんじゃん? 「恵比寿にあんなでかい店を作っちゃって、大丈夫なのかぁ?」ってね。それでオープン一週間前に視察に言ってみたのよ。
普通ね、オープン一週間前の店長って、第三者が来ると「来るんじゃねーよ」って、気を張り詰めた状態なの。でも聡のとこのアルバイトの子は、僕が会社の人間なのを知っているのに、「いらっしゃいませ」って言ってメニューを持ってきて、「ご注文がお決まりの時にまたおうかがいします」って。もう店になってんですよ。オープン一週間前の、それもアイドルタイムなのに!
石田 そうでしたっけ(笑)?
新川 そうだよ。そういう空気感ってね、店長が鬼になんないとできないことじゃん。だって、オープン前はスタッフが目的意識を共有して、「よし、いくぞ!」ってハイ・タッチなんかして、盛り上がったりしてる頃でしょ?若い子も多いし。
それなのに内部の人間に対して、「いらっしゃいませ」って言えるプロフェッショナリズム。この男はすごい!って、素直に思ったよね。裏でスタッフみんなに「殺すぞ」って、500回は言っているよなぁ、あの気迫は(笑)。
石田 言ってないですよ(笑)!!
新川 僕もどちらかと言うと、そういうの得意な方なんだけれど、「俺はここまでやれたかな?」って、自分と比較して感心したわけ。